第一章 第十四、五幕―兄ちゃん―

壱陽達を見送った後、ふと、正門脇の方に風雅が目をやる。弐陽が手紙を握り潰しながら俯いていた。


「…弐陽?」

「…また、何も言わないで行くのか。私を置いて学院に来た時も、何も言わずに出て行って。やっと会えたと思ったら私から逃げて逃げて逃げて!こんな置き手紙一つで…くそ、くそ!」

「弐陽!」


弐陽は地面に紙を叩きつけてその場から走り去った。

風雅はその後を追いかけようとしたが、弐陽は振り返ることも無く凄まじい速さで消えていってしまった。

六兵衛が手紙を拾って紙を引き伸ばす。まだ読める文字の少ない六兵衛が風雅にその手紙を手渡した。



『弐陽へ

どうしても直接お前に言う勇気が出せなくて、俺はこうして筆を執っている。朝起きて驚いたろう?凪斗君に頼んで、俺が出立する当日にお前の枕元に手紙が届くように一つ絡繰を借りたんだ。

夜まで鍛錬を怠らないお前のことだから、お前が起きる頃には俺はもう居ないかもしれないね。

最後まで不出来な兄ちゃんでごめんな。理想の兄ちゃんになれなくてごめん。

でもどうしても諦めきれなかった。乱波になる事は俺の夢だったから。家に居た頃は、毎日の畑仕事が憂鬱で、やりたいことが一つもやれない人生で良いのかってずっと思ってた。

父さんと母さんが俺の夢を後押ししてくれたのは奇跡に近かった。学費を易々と払えるほどの余裕がある訳ないなんてことは知っていた。頼み込んで頼み込んで、最後は俺の唯一の我儘を汲んでくれて、俺は学院に来た。

家を出る日、最後までお前の顔が見れなかったのはどうしても後ろめたい気持ちがあったから。俺が家を出れば跡取りはどうしても次男坊のお前だ。

お前に全責任を押し付けて家を飛び出す形になった事が、弱い俺には耐えられなかったんだ。

学院に来て、俺は絶望した。周りの子達は皆優秀で、俺が一等木偶の坊だった。実技も座学も全部頑張ったけど、誰にも何も勝てなくて、いつも最下位を競ってた。

それが本当に情けなくて、悔しくて。あんなに望んだ夢を追いかけているのに、何も楽しくなくなっちゃって。

それで逃げ出したのが慣れ親しんだ畑仕事だった。あんなに憂鬱で単調だと思っていた作業が心の底から楽しくて、俺の作った物を嬉しそうに食べてくれる人が居て、こんな俺を頼ってくれる人達が居て、俺は本当に幸せ者だなあって思ったんだ。

だからね、お前に負けてしまった時も、誰かに悪口を言われても、いつの間にか兄ちゃんは悔しくなくなっちゃったんだ。だって、もう諦めがついてしまった。他の道が正しかったことに気がついてしまったから。

それでも、俺がお前に負けてしまって言われた中傷に腹を立てて、お前は先輩相手なのに怒ってくれたね。ありがとう。誰が何と言おうとお前は優しい子だってこと、兄ちゃんは知ってるから。腹の立て方を忘れてしまった俺の代わりに、それは違うと周りを戒めてくれたんだろう?

ごめんな。でも本当に駄目な兄ちゃんなんだよ。お前が学園に来た日、わらしべ程度の夢の残骸に縋って、お前を怒鳴りつけてしまった。俺にもう乱波は無理なのに。お前に俺の最後の夢も盗られてしまうと焦ってしまった。

ごめんな。優秀で勇敢で、俺にできないことをできてしまうお前を、兄ちゃんは恨んでしまって。酷いことを言ってしまったとずっと反省しているんだ。

謝りたくても、どうしても目を合わせる勇気が出なかった。

お前と話をしたら最後、またお前に酷いことを言ってしまいそうな自分が何よりも嫌だったから。

でも、もう覚悟は決めた。お前は自分の好きなように生きなさい。兄ちゃんの分だった学費は学院長に頼んでお前の分になるように既に話は着けてあるから、安心して学院で学びなさい。

学院を卒業したら、俺と両親にお前の元気いっぱいな顔を見せておくれ。兄ちゃんは手を泥だらけにして待ってるからね。


追伸。そろそろ冷え込む時期が来るから暖かくして過ごすんだよ。俺の部屋に畑で採れたお芋がたくさんあるから、風雅君達を誘って皆で食べなさい。皆とっても優しくていい子達だから、きっとすぐにお前の良さに気がついて、気のおける友人達になるはずだよ。

兄ちゃんはいつでもお前の幸せを願っているよ』





うわん、うわん。と学院所有の山を走りながら泣く子どもが一人。言葉にならない声で、何かの固有名詞を叫んでいる。


「…に、ちゃあ…!にいちゃ…!にいちゃあん…!」


本当は、そんなつもりは無かったのに。ずっと意地を張って、褒めて欲しいと言えなくて、素直になれなかった男の子。


「…にいちゃあん!わたしは…私は…頑張ったんだよぉ…どれだけ頑張れば兄ちゃんが褒めてくれるか分からなかったから。私の努力が足りないから、兄ちゃんは私を叱ったんだと…。

私がもっと頑張って兄ちゃんの自慢の弟になれば、そしたらまた手を繋いで、私の名を呼んでくれると…そう思って…!

でも、兄ちゃんが私を見てくれないから、意固地になって、怒られてもいいからこっちを見て欲しくて…!」


ぽろぽろと大粒の涙が彼の頬を伝う。冬に近づきつつある秋風が、非情にも彼の頬を冷たく刺した。本来学院で求めていた、あの大きくて土臭い、温かい手が彼の頬をさすることはもう二度と無いなんてこと、とっくに弐陽も分かっていた。


「にいちゃあ…、にいちゃあん。おっきくなったねえって言ってよお…弐陽はえらいねぇって…言ってよお!置いていかないでよぉ…にいちゃあん!」


声が枯れるまで泣いて、兄が家を出ていった時と同じくらい声を張り上げる。

こんな抱えきれない思いを誰にぶつけたら満たされるのか、友の無い彼に思いあたる人物はいなかった。


全身に木の葉を付けて、目元を赤く腫らした弐陽が山から帰ってきた。


「おかえり、弐陽」


弐陽を待っていた様子の風雅が裏門に立っていた。その姿に幼い頃の壱陽の容姿がちらつく。おかえりを本当に言って欲しい人はもうここには居ない。そんな思考に弐陽は涙を堪えて俯いた。


「…なんだ。珍しいな。私に何か用か」

「これ。渡さなきゃと思って」


風雅の手から少しよれた紙が渡された。壱陽が弐陽に渡した手紙だった。弐陽がぐしゃぐしゃにしてしまった部分がある程度修復されている。


「完全に元通りって訳にはいかなかったけど、大事な物だろう。これは弐陽が持っておくべきだよ」

「…ふん、余計な世話だな」

「うん。そうだね。これは俺のお節介。でも、ここから先は君が始めるんだ。そうだろう?」


弐陽が思わず目を見開いて風雅を見つめる。弐陽の言葉を待っている風雅はそれ以降何も言わない。

壱陽の手紙の内容を見たのだろう、と弐陽は理解した。ならば、言うべき言葉も一つだろう、そう思って弐陽は兄がくれた優しさを受け入れた。


「…芋が」

「うん」

「…貴様ら凡愚と食べろと私の兄さんが用意しているらしい」

「うん。それで?」


風雅は弐陽の言葉一つ一つに相槌をうつ。素直じゃない少年が頑張って自分の気持ちを伝えようとしている。それを茶化すほど風雅は酷い化け物ではなかった。

口篭っていた弐陽が、不安と焦りで汗を流しながら意を決して口を開く。


「…皆でっ!…い、一緒に…食べないか!」

「うん。喜んで」


弐陽の言葉を聞くと、風雅はその隣に並んで弐陽の歩幅に合わせながら一緒に壱陽の部屋へと向かった。その途中で風雅が弐陽に笑いかける。


「壱陽先輩、いい人だったね」

「当然だろう。私の…たった一人の自慢の兄さんなんだから」


ひとひらの紅葉が二人の間にひらりと落ちる。珊瑚色の長い髪が風に揺られて弾む。風雅はそこで初めて弐陽の笑顔を見た気がした。


さつま芋の入った大袋を二人は抱えて、食事処ではなく修練場に向かう。既にそこには何人か集まって枯葉を囲っていた。


「あら、やっと来た」

「こっちはもう準備万端だよ風雅!褒めて!」

「ありがとう六兵衛、えらいえらい」

「なんだ貴様ら、寄って集って…そんなに芋が食いたかったのか。ふん、揃いも揃って食い意地の張った奴らだな」


さっきまでの涙はどこに行ったのか、普段の調子を取り戻したようで弐陽は悪態を吐く。ジルボルトと嘉一がそんな弐陽の顔を覗き込む。


「oh!弐陽は相変わらず口が悪いですね。嬉しい時はありがとう!ですよ?」

「そーだよー、ぼく達六兵衛に誘われて、弐陽と一緒にお芋食べるために来たんだよ?千歳と紅ヱ門は用事があるみたいで来なかったけどさー」

「煩い。このお節介凡愚共め」

「はいはい、お節介でも何でもいいから、さっさとお芋入れてちょうだい。火は準備万端なんだから」


奏兵衛に言われて風雅と弐陽がさつま芋を枯葉の中に数個入れた。風雅が弐陽に笑いかける。


「出来上がり、楽しみだね。弐陽」

「ああ。そうだな。…ありがとう、風雅」


周囲の音に掻き消えるほど小さな声で、弐陽はそう呟いた。だが、確かにその言葉は風雅に届いた。そんな微笑ましい空気もすぐさま変わる。手持ち無沙汰になっていた嘉一と追いかけっこをしていたジルボルトが弐陽に突進して怒らせた。

風雅は怒鳴り散らす弐陽から少し離れて、その様子を眺めた。


「…さて、こっちは何とかなった。明日からやることも決まった」


風雅は瞼を閉じて決意を固める。


(あのままお別れなんて絶対に駄目だ。一華先輩は露先輩に会わなきゃ。そうじゃなきゃあまりにも…悲しいじゃないか)


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