歴史に名を
「…ねー、けー君。つまんなーい」
釣りに出かけると言った俺に引っ付いてきて、意気揚々と釣りを始めた桃は数刻経った所でそう切り出した。
釣竿を片手に、膨れっ面をしている桃がこっちを見上げてくる。彼女の退屈の理由は明白だ。横に置いてある桶に魚の姿は無いのだから。
「…なら先に帰るか?」
「それは、やー。けー君一人にしたら翌日の朝まで帰って来ないなんてざらじゃない。弟の朝帰りなんて、お姉ちゃんとしてはとっても心配なのです」
心配されるような図体はしていないと思うが、なんて言葉は口には出さず。
「けー君は昼になったら桃と一緒にお家に帰るの。そしたら明日はパパと菜虫ちゃんと四人でお出かけよ!」
「…出陣の間違いだろう」
「お出かけには変わりないもーん」
何が楽しいのか分からない。だが、ふんぞり返って自信満々にそう伝えてくる桃に、思わず俺の顔にも笑みが浮かぶ。
出陣なんて、鬼を殺すだけの作業に他ならないだろうに。
「家に帰る前に京にも寄るか…?」
「行く!新しい髪飾りが欲しくて、お小遣い貯めてたの!」
「俺も新作のすずりが売られているか確かめないとな」
「…けー君、この間も長考して新しいの買ってたけど、すずりってそんな頻繁に新作が出るものなの?」
「まあ、買う人間がいれば、品を用意する人間も居るだろうよ」
腐臭。血の臭い。汚泥汚物の溢れる地面を誰もが、さも当然かのように歩く。京の町の所々で、今日も悲鳴と煙が上がる。
───────まあ、これでも多少はマシになった方だが。
一度家に帰った俺達は、荷物を置いてから京の町へと繰り出していた。
桃の隣には無理矢理手を引っ張られて買い出しに連行されてきた菜虫がいる。
そんな菜虫は苦虫を噛み潰したような顔で俺を見上げてきた。
「なんで俺まで…個人的な買い出しくらい勝手に行ってこいよな!」
「…俺に言うな」
「もー、何よ二人して。せっかくなら兄弟仲良く三人での方が楽しいじゃない。菜虫ちゃんは何が欲しい?お姉ちゃんは気前がいいので何でも一つくらいは買ってあげちゃうのです!」
「菜虫ちゃん言うな!…じゃあ新しい槍。鍛錬用に使ってるやつが最近壊れたんだよ」
「了解!リボン付きのやつね!」
「それは要らねぇ!」
二人の漫才を聞き流しているうちに、目的の店の前までやってきた。
俺はかつての面影の無い店の姿に目を見開くと、口を真一文字に結ぶ。
不意に足を止めた俺の背中に桃が衝突して、赤くなった鼻先を数度撫でた。
「いたた…。けー君、急に立ち止まってどうしたの?」
「…店が無い」
俺の言葉に二人が俺の目線を追う。火でも着けられたのか、黒ずみまみれの材木。一層濃い血の臭い。
「賊にやられたか…そうだよなぁ。例え少量でも安定した買い手が居る店だしな。こんな時勢じゃ標的にされて当然か」
「…ここのお父さん、いい人だったのにね」
───────いい人ほど、生きられないんだろうよ。こんな世界じゃ。
なんて言葉は噛み殺して、俺は店へ入る。ざっと見渡す限り、金目の物は殆ど持ち去られたようだ。
「…あ」
店の奥隅に、作りかけのすずりがポツンと置いていった。
俺はそれを手に取り、数度撫でてみる。変わらぬ触り心地に、思わず笑みがこぼれた。
「…雑貨屋の親父め。俺が新しいすずりを買いに来ると読んでいたな」
瞼を閉じれば、脳裏に店の親父の姿が浮かぶ。小さな娘をたいそう可愛がっていた。俺の父と同じく、優しい人だった。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す、か」
しがない職人だったあんたは死んだが、こうして作品は世に残るのだ。
…俺の一族は鬼殺しの一族だ。復讐を遂げる頃にはきっと、俺の一族の名も広まり大成しているはずだ。
そう思い立った俺は、すずりの脇にあった鑿を持ち、店の親父の名を刻むとすずりを懐にしまった。
「…こうしておけば、俺の人生を彩ったあんたの名も同じく世に残るだろう」
職人にとって、それほど嬉しいことも無いだろう?あんたは娘を見る目と同じ目をして、作品について嬉しそうに語ってた人だ。
ひょっこりと俺の様子を伺っていた二人に笑いかけ、俺は店の奥から踵を返す。
心配そうな顔をして俺の袖を引き、もういいの?と言いたげに首を傾げる桃。
「俺の用は済んだ」
俺は桃の頭を軽く数度叩いて、二人の先頭を歩き始める。
「あっ!待ってよ。けー君!」
「あ、おい!置いてくなよ」
背後から二人の駆け足の音がする。
買い出しはまだ、始まったばかりだ。
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