第一章 第十五幕―露―

病に伏せてからすっかり痩せこけた露は自室の扉に人気を感じて声をかける。そうすると部屋に土鍋を手にした風雅が入ってきた。

眉間に皺を寄せて目をこらす露に対して笑顔の風雅は、露の返事を待たずに近くへ寄った。


「…風雅かい?」

「はい。俺です。こうして説得に来た回数はもう何度目ですかね。三顧の礼もとっくに過ぎたことですし、そろそろ了承して頂きたいものなんですが」

「はは、確かにね。だけど難しい話だ」


風雅の擦り合わせる手の仕草で、露は外の景色が秋から冬模様に切り変わったことを露は悟る。

風雅は露の体を支えながら、布団で寝ていた露の上半身を起こした。


「…そんなに一華先輩方とお会いするのが嫌ですか?」

「ああ。御免こうむりたいところだね。君が壱陽の代わりにお世話に来ました、と言って最初にこの部屋に来た時も憂鬱だったものなんだが、流石にこう毎日だと嫌悪を通り越していつの間にか無関心になるものだね」

「はいはい。熱いですよ。気を付けてくださいね」


笑顔で皮肉を呟く露を無視して、風雅は木製スプーン一杯分のお粥に何度か息を吹きかけて冷やし、露の口元へ持っていった。露はそれを口に含み、眉間に皺を寄せて鼻で笑う。


「…ふふ、味がしないな。どうやら遂に味覚も逝ったようだ。君が料理を持ってくる度にぐちぐち言ってはいたが…楽しみにしていたんだけどね」

「でしたらそのお礼でも良いので貴方を慕っている先輩方に会ってあげて下さい。完全に感覚が無くなる、その前に。そうしないと貴方の意思は勘違いされたままになってしまいますよ」


風雅の頭に隈ができてしまった清兵衛と直人の姿が浮かぶ。彼らは秋からずっと露を探し続けている。直人に関しては今も尚捜索を続けていることを風雅は耳にしていた。


「…自分達の事を嫌いになったんだ、って清兵衛先輩言ってしましたよ」

「…言っただろう?最期に彼らの泣き顔を見たくないんだ。私を慕ってくれているからこそ、私の死はあの子達にとって障害になる他有り得ない。

ならば何も伝えないまま、忘れられてしまった方が幸せだろう。勝手な話だが、これが私の最期の願いだ」

「…本当に勝手ですね」

「人はいつだって勝手なものさ。ご馳走様。さあ、私はもう寝るから早くお帰り」


露が上半身を倒し、仰向けに寝る体勢に入る。凪斗が説得しに来た時もこうだったのだろうと思う度に、風雅の口からため息が漏れる。

露に布団をかけ直してから、風雅はその場を動こうとせず正座のまま露を見つめた。


「…今日は随分強情だね」

「当然です。露先輩もご自身のことですからよく分かっていらっしゃるでしょう?…もう時間が無いんですよ」

「…まったく、頑固でお節介な所が凪斗に似たねえ、それに悪知恵もよく働く。外に誰か居るね」


露が首を傾けて風雅を見る。真面目な顔で灰がかった露の瞳を見つめ返し、風雅は頷いた。


「ええ。無理やり理由付けして遠ざけている様子がお変わりにならないようでしたので。…多少強引なやり方になったことは謝りますが、直接ここに清兵衛先輩をお呼びしました。…一等ここに来て頂きたい一華先輩は未だ帰還されませんでしたので何もお伝えできていませんが」

「当然だ。私がそうしてくれるよう壱陽に頼んだんだから」

「そうだと思いました。距離を考えても、もう帰還されてもおかしくない時期ですからね。それにいくら女生徒が強いと言っても、壱陽先輩には他にも選択肢があったはずなのに、わざわざ一華先輩を共に選んだことを疑問に思っていたんです。

大方、一華先輩が早く帰還したとしても露先輩に会えていない日が多いことを疑問に思わせないための施策ですね」

「うん。正解だ。凪斗から良く学んでいるね。流石だ」


諦めた様子で天井に目線を移した露の煮え切らない態度に風雅が顔をしかめる。恐らく未だ最後の決断が出来ないのだろう、そう踏んで風雅が更に話し続ける。


「…それとお言葉ですが、外はもうめっきり寒いですよ」

「…その言葉はずるいな。それじゃ私がまるで悪者みたいじゃないか。…はあ、分かったよ。君に降参だ。風邪を引いたら可哀想だ。清兵衛を入れておくれ」


露のその言葉を引き出して満足気に返事をすると、風雅は入口の戸を開く。その瞬間、目尻に涙を貯めながら、雪崩込むように清兵衛が入ってくる。


「露先輩!!!」

「ああほら、もう泣きじゃくってるじゃないか」

「あだ、当たり前です!何でもっと早く呼んでくれなかったんですか!死期が分かっているのに何も言わずに一人で死ぬのを待つだなんて、そんなの寂し過ぎますよ!

露先輩が何も言わずにいるから、直人も露先輩を探してずっと帰ってこないんです。何かあったんじゃないかって、もう二週間も戻らないんです…」


清兵衛は布団にしがみついて泣きつき、その握り拳に止めどなく涙が落ちる。


「…そうか。すまないね。死を宣告されてから、もう君達の前で明るく振る舞える自信がなかったんだ。今の私は君達にしてあげられることが何も無い。涙を拭ってあげることも、抱き締めてあげることすら。そんな日に日に弱っていく私を横で眺め続ける君達を想像したら、今日みたいに毎日泣かせてしまうことになるなんてこと、分かりきっていたから」

「それでも!…それでもずっとお側に居ます!露先輩が泣くなと言うなら、僕も直人も笑います!だから、僕達に何も言わずにいかないで下さい…」


清兵衛がそう言って無理やり笑顔を繕う。

露が風雅に目線をやり、風雅が頷く。部屋の外で待機していた凪斗に風雅は声をかけ、直人を連れ戻す旨を伝えた。


「…全生徒に通達して直人先輩の捜索をするそうです」

「そうか、ありがとう。…清兵衛、一つ頼みたいことがあるんだ。良いかい?」

「はい!何でも言ってください!」

「私のことなど一切忘れて、これらも平常通り生活すると約束してくれないかい?」


期待の籠った表情で露を見つめていた清兵衛の顔がくしゃりと歪む。


「それは…無理ですよ…」

「それじゃあ別の願いにしよう。君が天の国に居る私の元に来る時に、君が幸せだと感じた思い出を酒でも交しながら私に語ってくれないか?そうだな、できるだけ長く話ができるように思い出は多い方がいい。聡明な君なら、私の言っている意味が分かるね」

「…はい。すぐに後を追うな。そういう意味ですね」

「そうだ。直人と一緒に私よりも誰よりも長く長く生きて、天の国で会ったら口の端を大きく釣りあげながら、幸せな人生だったと言っておくれ。…それだけでいい。どうか幸せにおなり」


そう言って露は清兵衛に笑いかける。清兵衛の布団を掴む掌の力が更にこもって、遂には声にならない嗚咽だけがその場に響き渡った。



しばらく時間が経過し、袖で涙を一度拭ってから清兵衛がその場で立ち上がった。


「直人を呼んできます。直人の事は僕が一等分かってるから、僕が探した方が早く見つかると思うので」

「うん。行ってらっしゃい。私はそれまで少し眠ることにするよ。何だかすごく眠たくてね。少し頑張り過ぎたみたいだ」

「はい。あの、露先輩」


部屋の扉に手をかけた清兵衛が露に声をかける。


「僕達、絶対に幸せになります。それで、一等の笑顔で露先輩に会いに行きます。だから、それまで僕と直人のこと待っていて下さい」

「…ああ、三途の川の渡し賃を数えながら待っているさ」


露の言葉に満面の笑みを返して、清兵衛は部屋の外へ飛び出し走り出した。

足音が聞こえなくなったことを確認して、風雅はまた露の傍に腰を下ろす。

凪斗が先んじて呼んでいたのだろう、学が部屋に入って来た。


「調子はどうだ?」

「ええ、絶不調です。全身が痛くて、目が霞むし、何より心が痛い。ねえ、風雅、私はあの子の前で普通に振る舞えていたかい?」

「はい。露先輩らしいと思いました」

「そうか…良かった。私が思っていたよりもあの子が気丈に振る舞うものだから。ははは…参ったな。こんなことなら皆の言った通り早く会っていればよかった。まだまだ守るべき子どもだと思っていた子は、いつの間にか私の願いを汲んで笑顔で別れを言えるほど強くなっていたんだね。

…ああ、今更になって死ぬのが惜しい、あの子達はこれから先どんな風に育っていくのだろう、そう思うと胸が張り裂けそうだ…死にたくない…」


何かの糸が切れたように、とめどなく露の目から涙が溢れる。

露の途切れ途切れの言葉を聞いていると、初めて露の口から本音が零れ落ちた気がして、風雅の手にも力が篭もった。学は黙って露の手を取りながら深く頷く。


「風雅…まだ近くにいるかい?」

「はい、露先輩の隣に居ますよ」

「私の病はね、昔から早く死ぬって言われ続けてたものなんだ。最初は三つの頃、次は五つ、その次は九つの頃…。看病に当たっていた人達も、最初は早く治るようにって祈ったり励ましてくれたりしていたんだけどね、何度も繰り返し同じ病にかかり、その度に峠を超えて薬師の宣告よりも生き続けてきたものだから。そうしている内に善意で始まった感情が、いつの間にか憎悪に変わっていってた。…早く死んでくれって、よく言われたよ。

…学院に来る前、私はそんな人生に心底疲れ果ててしまってね。やりたいことも無かったから、最後の思い出作りくらい今までやってこなかったことをしてみようと思ったんだ」

「それが清兵衛先輩と直人先輩ですか?」


菜の花畑での話を思い出し、そう切り出した風雅の言葉に露が軽く頷く。


「結局私は自分の満足のために気まぐれであの子達を助けただけなんだ。でも、あの子達はそんな私の死を心の底から悲しんでくれた…。

…風雅。答えてくれるかい?私の人生は、生にしがみつき、もがき続けた私の一生は、幸せだったと言えるだろうか?」


風雅の答えは決まっている。微笑みながら、風雅は露の手を取っている学の手の上に、自分の手を重ねた。


「もちろんです。貴方も皆も幸せだったに決まってるじゃないですか。貴方は桜みたいな人でしたよ。皆が貴方を見ると笑顔になって。穏やかなのに煌びやかで…皆、貴方のことが大好きでした」


自然と風雅の頬に涙が伝う。その言葉に露は瞼を閉じながら微笑んだ。


「そうか…それはあまりにも嬉しい、ものだなあ…桜、好きなんだ。…一華ちゃんと初めて会った時、私に似てると…言ってくれた…から」

「え、露先輩…それって!…露先輩?露先輩!露先輩!学さん!露先輩が!」


風雅の慌てふためく様子に学が露の首筋を触る。しばらく蘇生行動を行った後、学が眉間に皺を寄せて首を横に振った。


「…残念だが」

「なんで…何で今なんですか!その言葉は、一華先輩に直接言わなきゃ駄目じゃないですか!なんで…まだ直人先輩にも会ってないじゃないですか…」


肩を震わせて涙を零す風雅の体を、学が抱き寄せてその背を優しく叩く。声を殺しながら、学の胸元を握り締め、風雅は泣きじゃくる。


「もっと、もっと俺が早く決断して…今日みたいに無理やり先輩方を連れてくれば良かったんです…そしたら誰も後悔しないで済んだのに…皆が露先輩の最期に立ち会えたのに…、頑なになるほど嫌なんだと思ったら今日まで押し通せなくて…」


風雅の言葉一つ一つに学は相槌を打ちながら答える。青臭い学の手が風雅の頭を撫でる度に、風雅の涙は学の服に染みを作りながら頬を伝い落ちていく。


「お前は悪くないよ風雅。誰も悪くはないんだ。大事な人を悲しませたくない、お互いが相手を思いやった結果だ。だから、今はいっぱい泣いていい。お前がやった事は間違ってない」


その二人の後ろから、勢いよく扉が開く音がした。風雅の視界は涙で歪み切っていて、その音の正体が見れなかった。

誰かが膝から崩れ落ちる音と、声にならない悲しみに満ちた叫び声しか、風雅の元には届かなかった。


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