別離、便りは無し

先月、姉さんが死んだ。
姉さんの居なくなった世界は、なんだかとても閑静で窮屈に感じて。
麦は寂しんぼうだね、と真ん丸な目で俺を見つめて、両手でわしわしと頭撫でる小さくて温かいあの手はもう無いのだと、嫌でも思い知ることになったんだ。


「具合はどうさね」

声をかけられて、天井の染みを見ていた目線をゆっくり横にずらす。
ぼやけた視界の中でも分かる特徴的な髪型と痣。

「…お帰りうめこっち。ごめんねぇ。出迎えもできなくて」

俺は布団から身体を無理やり起こして、胡座をかいている梅子に笑いかける。
昔は皆が討伐を終えて帰ってくる頃合いになったら、玄関先で帰りを待っていたんだけどな。

「…無理はしなさんな。それに、病人に気を遣われて易々と喜べるほど、あたしらは人間として落ちぶれちゃいないよ」
「ははは、それもそうだねぇ…他の皆はどうしたの?討伐は終わったんだよねぇ?」
「もうすぐ来るはずさね。討伐は特に問題なく終えたよ。諸々報告は蛍達に任せて、あたしだけ先に来たのさ。…イツ花から、もう終わりも近いって話をされたからね。
当主と一対一でしか話せない悩みもあるかもしれないと思ったんだよ」

弱々しく、そっかぁと返事をして、俺は痙攣する手に力を入れて握り拳を作る。
もう、槍も持てない身体になってしまったんだなぁと思うと、余計に終わりが近いという言葉に現実感が帯びる。
昔から俺はどうしようもなく使えないやつだったけど、今はあの頃よりも利用価値のない老体に他ならない。

「…俺ねぇ、本当は俺のこと嫌いだったんだ」


乾いた笑みを浮かべながら、嘲笑うようにそう呟いた。


「戦うのが嫌いで、でも、家に一人ぼっちも寂しくて。不特定多数の誰かに嫌われるのが怖くて。
…でもねぇ、作り笑いだけは得意だったんだぁ」

口角に指を据えて、両頬をつり上げる。
ぼやけた視界では、今、彼女がどんな顔をしているかなんて分からない。
…相手の顔が見えなければ、どうやら俺は非常に怖いもの知らずになれたらしい。

「相手の声色を伺いながら、そこそこに相槌を打って。相手は何が嫌いなのか判断して、相手に嫌われないように話題を合わせて。
弱音を吐いたり、否定したりしたら嫌われるから、常に笑顔で大丈夫だよ…ってさぁ」

ああ、そうさ。振り返ってみれば、なんとも他人基準な人生だった。他人に俺の価値を認めて貰えなければ、酷く不安になって。
そんな風に自分に枷を填めて、重りを足に垂らして歩く生き方しか、俺は知らなかったんだ。
押し黙る梅子に俺は淡々と続きを語り続けた。

「嫌われるくらいなら、笑われた方がましなんだぁ。笑われ続けている限り、人は俺を見てくれるでしょう?見捨てないでいてくれるでしょう?
俺はさ、誰かが必要としてくれるのなら何だって構わなかったんだぁ。求められる人物像を演じ切る自信はあったからね。
でもねぇ…もう、いいや。もう俺、疲れちゃったぁ…」

両手で自分の顔を覆う。
そんなことを続けていたところで、いつまでも不安は拭えないことなんて知っていた。
人間の欲深さは異常だ。
俺はいくらお湯を注いでも満たされない茶碗を大事に抱えて、いつか満たされる日が来ることを待ち望んでいた。
だけど俺が持っていた茶碗は最初から穴が空いていたのだ。

「…俺、姉さんが羨ましかった。自由で、自分というものを持っていて、皆から好かれてて。…ずっと憧れだった」
「…あたしにはあんたも随分と自由な人に見えたけどねぇ」
「…俺のは偽物だよ。継ぎ接ぎで繕った突貫品。…ああ、でもうめこっちにそう見せられていたなら、俺の演技も捨てたものじゃなかったんだなぁ」
「ああ、一流さ。何を考えてるかまるで分かりゃしない天界の神様達にも負けず劣らずの名俳優さね。
天界に行っても紅花の姉さんと一緒に大騒ぎするあんたの姿が目に浮かぶよ」

梅子の温かな手が俺の頬に触れた。

「あんたは己のことが嫌いだろうけどね。あたしにとっちゃ自慢の兄さんだったよ。紅花の姉さんと同じくらいにね」


思ってもみなかった言葉を受けて、目を見開いて瞬きを一つ。


「…それは慰めのための嘘?」
「カカカ、本心さね」
「そっか。そう言って貰えるなら…うん、俺にしては上出来だった。満足だ。ありがとう…」




目を、開ける。
周囲を見回せばどこまでも広がる水の上、俺は一人で渡し船に乗っていた。
視界は良好、体も軽い。俺は死んだのだと知るにはそれだけで充分だった。

「あ、一つうめこっちに訂正し忘れちゃったなぁ」

俺ね。天界で姉さんに会うつもりはないんだ。姉さんが大好きで、羨ましくて妬ましいと思っている俺は、あの人に会ったら側にいて欲しくて足を引っ張ってしまいそうだから。
だから、会わない。それでいい。ただいまもおかえりも、十分現世で伝えたことだ。
それに、会わないことで募る想いもあるでしょう。




自慢の羽根を広げて、メイク直しをしながら歩いていた時だった。
下界から死去した人が渡って来る魂の渡し船を、じっと眺めている愛しい人の姿を見かけてあたしは声をかけた。

「あら、白鳥ノ鍋入ちゃん。こんな所で何をしているの?」
「弟の姿が見えたから」

こちらには一目もくれず、いつも通りの素っ気ない声色でそう返された。

「あらそう、会いに行くの?貴方神様になったんだもの。一度くらいだったら昼子ちゃんもお目こぼししてくれるわよ?」

あたしが背丈を合わせるために屈んでそう聞くと、彼女は首を横に振った。

「あら、どうして?」
「…引っ張ってきちゃうから」

そう呟いて地面を指さし、彼女は困ったような顔であたしに笑いかける。
そうね。選ばれなかった魂を”こっち”に連れてきちゃうのは問題だわ。

「だから、これでいいの」
「そう…」

目を伏せて満足そうに微笑んだ彼女は、両手を広げると肩に乗せるようにあたしにねだる。
あたしはそれに二つ返事で返して、彼女を抱えあげる。

「明美、散歩して帰ろう」
「いいわよ。さぁ、どこに寄って帰りましょうかしらねぇ」
「まかせる」

そう言ってあたしに寄りかかって眠りにつく、幼い容姿の氏神様。
微笑ましい姿に思わず笑みをこぼしながら、起こさないようにゆっくりと歩み始めた。


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