序章 第二幕―キセルの香り―
カレーの良い匂いを台所の窓から漂わせながら、風雅は今日の調理を終えた。
丁度その時、井戸端会議がキリの良い所で終了したのか、静江が家の中へと入ってきた。だがその後ろにはもう一人来客がいるようで、静江に耳を引っ張られながら男が一緒に入ってきた。
「あー、ごめんなさいねえ風雅。ついご近所さんとの噂話に盛り上がっちゃったわあ」
「大丈夫ですよ静江さん。それに学さん、また静江さんに捕まったんですね…」
「いてててて!風雅!言ってやってくれ!人を見かけた瞬間ズカズカ近寄ってきて、いい笑顔で急に耳ひっつかんで何処かに連れて行こうとするのやめろって!」
学と呼ばれた男は決して肉付きの良くないひょろ長い体で、未だに耳を引っ張っていた静江の腕から何とか抜け出し、朱色の髪を揺らしながら無精髭の生えた顔で風雅に詰め寄った。
学は隣村に住む二十代後半の薬師の男で、静江から一方的にスキンシップと称した悪戯を受けていた。彼は風雅の自我が芽生えた頃から一月毎の頻度で家にやってくる静江の主治医だ。だが普段と比べて今回の到来間隔がやけに短いことに風雅は気が付いていた。
「残念ですが言っても止めないんですよ。それより学さん、静江さんと会うのを嫌がっているのにこの近くにいたってことは、何かこの近くで診療の予定でもあったんですか?」
「あー、それなんだけどな。風雅。今、飯はあるか?」
「はい、つい先ほどお夕飯の準備を終えたところですが、それがどうかしたんですか?」
「そうか、なら丁度良い。なに、他の客の相手をしていた帰りにこの村の近くで行き倒れを見つけたんだがな。地面に突っ伏していたから死んでるのかと思って脈を確かめようと近寄ったら、そいつに袖を掴まれて飯を強請られた。これでも俺は薬師だ。人を救う事を仕事にしてる身の上だからなのか、どうにも見過ごすことが出来なくてな。餓死する前に何とかできない物かと、心底嫌だがこの村で一等気心の知れる静江の家に来たってところだ」
風雅は学の言葉に顎に手を当て考えこんだ。風雅は自分が不幸をもたらす化け物であるという認識があり、この世界の人間との接触を必要最低限に避けていたため、すぐに返事をすることが出来なかった。だが元平成人としての性なのか、簡単に命を見捨てても良いのかと彼は脳内で自問自答を繰り返す。やがて自分の甘さに、大人びた顔で自身をあざ笑った。
「…分かりました。その行き倒れを連れてきてください。ご飯を一緒に食べる人数は多ければ多い方が楽しいですから」
「悪いな。助かる。俺の家まで連れ帰るには遠いからな、困り果てて…いへへへへへへ!!!ふぁひひあはふ!!」
「風雅に許可を取る前に家主の許可を取りなさいよお!貴方ってば長年付き従ってた割には私の事風雅よりも下に見てるんじゃないの!全くもう!」
風雅の返事を聞いた直後、静江に思いっ切り頬を引っ張られた後そう告げられる。そっぽを向かれた学は痛そうに自分の頬をさすった。
「いててて…力加減ってものをそろそろ覚えて欲しい物なんだがな、まあなんだ。静江は嫌な時は嫌だと言うからな。すぐさま拒否されなかった時点で風雅の返事次第だったってことくらい、分かってたさ」
「あんたなんかが私の事分かった気にならないで頂戴。学のくせに生意気」
「へいへい、じゃあまあ風雅の気が変わらないうちにちゃっちゃと連れてきますかね」
学はそう言うと一人の男を肩に担いで連れてきた。栗色の髪を上部でくくり、扇の柄の服を纏った学よりも比較的体格がよく見える男は、小声でうわ言の様に何かを呟いている。
「め…飯…」
「はい、どうぞ。お粗末なもので恐縮ですが…」
湯気の立ったできたてのカレーを盛って、風雅は行き倒れの男性に手渡した。震える手でそれを受け取った男は、木製のスプーンでカレーを勢いよく掻っ込んだ。
男がカレーに口を付けたことを確認した風雅と静江は他の皆にもカレーを持って行き、筍の煮つけや山菜のサラダを机に置いた。
「それじゃあ、いただきまーす!」
「悪いな、俺まで晩飯にあやかっちまって」
「大丈夫ですよ。賑やかな方が食事は美味しいんです。ああほら、六兵衛も野菜をちゃんと食べないと大きくなれないよ」
「風雅は体格のいい方が好みなの?」
「うーん…、痩せすぎよりはいいかな」
「じゃあいっぱい食べる」
他愛ない会話を挟みながら、賑やかな食事を迎えた彼らを横目に、先に食事を進めていた男が幾分か早く食事を終え、彼らに向き直り礼をした。
「すまない、突然の訪問にも関わらず馳走になった」
「いえ、お腹が膨れたのなら良かったです」
「本当に助かった。助けて貰っておいて名乗らないのは礼儀がなってないな。俺の名は小五郎。しがない流浪人だ。
たまたまこの付近で実入りのいい仕事があって、その終わりに寄った団子屋で運の悪いことに財布を掏られたようでな。ここいらの土地にも馴染みが無い物で、途方に暮れて歩き続けて気が付いたら早三日、腹が減り過ぎて終いには行き倒れときたものだ。そこの男に助けて貰わなければ今頃死んでいたところだろう」
「ほーそいつは大変なことで。じゃあお兄さんは今日泊まる場所も無いんじゃ?」
「あら、それなら家に泊まっていけばいいわ。旅人さんだなんて話のネタをたくさん持っていそうだもの。一宿一飯のお礼は子どもたちに旅物語を語ってもらえればそれで十分だわ」
手を叩いてそうしましょうと静江は告げると、来客用の布団を敷きに、鼻歌交じりにその場を後にしようとしたところで振り返った。
「ああそうだ。六兵衛君も今日は家に泊まっていく?旅人さんの話を独占する機会なんて早々ないわよ」
「泊まる!静江さん、僕風雅の隣で寝ていい?」
「いいわよー!そしたら寝室にお布団三つと客間に一つね」
「…はあ、また勝手に静江さんは決めるんだから。学さんは帰られるんですか?」
「ああ、泊まっていきたいのはやまやまだが、明日は来診があるからな、日が暮れる前に帰るさ。という訳でご馳走さん、美味しかったぜ風雅。またお前は腕を上げたなあ、将来が楽しみだ」
学の青臭い男らしい大きな手が風雅の頭を乱雑に撫でる。学はこの家に来る度に、こうして一度は必ず風雅の事を褒めて頭を撫でていた。だが、風雅は何も反応を返せず、垂れ下がった眉を一層強張らせた表情のまま、学を見上げた。また来るからな、と風雅と目線を合わせながら目を細めてそう言うと、学はそのまま家を出て行った。
学の背中を見つめる風雅の目線を自らに寄せようと、六兵衛は風雅の腕を引き、自らの腕と絡ませると頭を風雅の肩へ乗せた。
「風雅。嫌な時は嫌って言わないと伝わらないよ?僕から風雅が嫌がってますよって学に言う?学の手、薬草臭いから僕撫でられるの嫌だもの」
「ううん、違うよ。別に嫌なわけじゃ…ないと思う。ただ、どう反応したらいいのか分からないだけ。気にしないで」
「風雅と云ったか?あの男とは親子には見えないが仲が良く見える。お前さんの若い母君の古い友人か何かか?」
「ええ、俺が生まれる前からの長い付き合いみたいで。静江さんもああ見えてちょっと持病があるみたいで、よく診療に来てもらっているんです。最近は忙しいみたいで、ああやってすぐ帰ってしまう事が多いですけれど、いい人ですよ」
「そうか。くくく、評判のいい男の面を被るのは上手いようだが、鼠のフリはどうやら下手なようだな」
小五郎はそう言うと一度天井を見上げた後、風雅をじっと見つめた。それは本命はお前だ、とでもいうかのように全身を嘗め回すような、じっとりとした目線だった。
「いやなに、心配性な男だと思ったまでだ。お前さんの保護者代わりが随分誇りのようだ。お前さんも彼を大事になさい。あれはどうやら尽くす男のようだからね」
「はあ…あれ?俺静江さんが母親だって、いつ言いましたっけ?」
風雅は一度転生を経験したからか、静江のことを母親と認識することが出来なかった。前世での母親の記憶など全く思い出せない状態であるはずなのに、今生で静江のことを母と呼んだが最後。前世との繋がりを一つ失ってしまうような気がして仕方がなかったためである。
「いいや。事前にお前さんについて調査してきたから知っているだけさ。化け物さん」
小五郎のその言葉を風雅が認識した時、風雅の見えていた周囲の景色が一転した。瞬きの合間に家の中にいたはずが、どこかの草原で小五郎と向かい合って座っていた。ずっと腕を絡めていた六兵衛の重さも突然消えて、風雅は突然の出来事に冷や汗をかいて胸を押さえた。
「…俺を殺しに来たんですか?ただの子どもを驚かせようとするのにこんな派手なことしないですよね?はは…仕方ありませんよね。最初からこんな時が来るなんてこと、分かってましたよ。だって俺はこの世界じゃ異分子ですからね。化け物ですから。
さあ、殺してください。首を刈ってでも拷問にかけてからでもいいです。それとも腹に石でも詰めますか?四肢を落としてからでもいいですよ?化け物の最期なんて、どんな物語でも無残で残酷でどうしようのないものだって相場が決まっているんですから」
諦めたように風雅は腕を広げ目を閉じる。この世界に生まれた時から彼の中で決めていたことがある。殺されるときは何の抵抗もなく殺されようということだ。転生してきたという事実と化け物としての意識が、彼の中で罪悪感を産んだ結果の意識だった。
何秒か経った後、小五郎から何も返答がなかったため、風雅は目をゆっくり開くと目の前の小五郎が肩を震わせていた。
「くっ、ぷっくくく、くはははははは!!なんだその潔さ!武家の子どもでもあるまいし、家の息子の方が頭でっかちではあるが、まだ子どもらしいぞ!それに異分子だなんだと意味が分からん!お前さん早とちりが過ぎるなあ!何で俺が子どもに手をかけねばならんのだ!ああ阿保らしい!」
「お、俺を殺しに来たんじゃないんですか?」
「違う違う。しかしその歳でこれだけ流暢に口が回るのは賛美に値するな。今まで様々な子ども達と出会ってきたが、自分の事を化物だなんて言い切ったうえ、殺してくれだなんて宣う奴には初めて会ったぞ。いやあわざわざ行き倒れのふりをしたかいがあったなあ」
小五郎は自分の懐に腕を突っ込むと小袋を取り出し、風雅に投げつけた。そこには決して多いとは言い難いが、一宿一飯ほどなら余裕でできるであろう金銭が入っていた。
「…騙したんですか?」
「くくく、知らねえ輩を家に上げた上に泊まらせようとした、お人好し一家の一人に言われても何も思わんな。
…どうだお前さん。うちに来ないか。悪い所じゃない。ちと問題児ばかりで騒がしいが、お前さんみたいなやつを歓迎してくれる。確か歳は八つだったな。十一になったら迎えを寄越す。どうだ?」
「一度騙しておいてその言葉を信じろって言うんですか?」
「ああ、俺を信じろ。…頼むから、たかだか八つの子どもが自らを化け物と称し、他人相手に自死を懇願してくれるな」
小五郎はそう呟くと一瞬だけ寂しげな顔を浮かべる。その姿はまるで死ぬなと懇願されているようで、風雅は罪悪感からただ黙って自分の服の胸元を握りしめた。
「分かっちゃいると思うが、この世は殺すか殺されるか。戦う術は一つでも多く手に入れなきゃいけない時代だ。少しでも死にたくないと、生きたいと思うのなら俺の手を取れ」
「貴方…一体何者なんですか?」
二人の間に一陣の風が舞う。顔を覆い隠すほどぼさぼさに伸びた前髪を男はかき上げて、今度はキセルを懐から取り出し火をくべると、ニヤリと底意地が悪そうな笑みを浮かべた。
「龍宮学院学院長。龍宮小五郎。お前さんみたいな輩を集めて乱破集団を造っている。こんな大掛かりな幻術をかけたのは、お前さんの保護者代わりのあの男が聞き耳立ててこっちの様子を伺ってたからだ。まどろっこしいから全員まとめて術に嵌めたのさ。まあ他のやつらはこんな景色まで変わるようなものじゃなくて、もっと簡素な術だがな」
「つまり、貴方はその組織に引き抜くためだけにいらっしゃったんですね」
「そういうことだ。…なあ、お前さんの人生の内の肆年間を俺に預けてみないか。きっと後悔しない。なにせあの場所にいるのは大抵がこの世に生まれたことすら嘆いてるような、お前さんみたいな子らばっかりだ。お前さん、そういった輩を放っておけない性格してんだろ?」
「それは…まるで俺に救世主になれとでも言っているような言い草ですね」
「さあ、どうだかね。…返事は三年後、お前さんが十一になる年の春に俺の息子が聞きに来る。俺と違ってとんだ頭でっかちでな。支えてくれる仲間は多いに限る」
小五郎がキセルを吸って煙を吹かす。そうすると辺り一掃を強い風が襲い、風雅は思わず顔を腕で覆った。
「じゃあな!お前さんが俺の箱庭に来るのを待ってるぞ!」
小五郎の声が段々遠のいていく。暫くして風雅が覆っていた腕を下ろし、目を開ける。そこはいつも通りの家の中で、肩を通して幻術の中で寝てしまっていた六兵衛の重さが、元の場所へ帰ってきたことを風雅に意識させた。
目の前に座っていたはずの小五郎は既に居らず、風雅は冷や汗を拭い、一息つくと六兵衛の腕を引き剥がすと姫抱きにし、寝室に敷かれていた布団の中に彼を寝かせた。そして布団の上で寝てしまっていた静江に改めて布団を掛け直す。その後彼は客間に向かい、一人で延々と先ほどの出来事を思い出しながら三年後の今日を憂い、眠れぬ夜を過ごしたのだった。
その日彼は夢を見た。
今生の姿より少し成長したように見える風雅は、誰かの遺影を抱えて泣いていた。雨の降る葬式会場で、顔を黒いクレヨンで塗りつぶされている、幼さが残る高校生くらいの男性。男は傘を片手に、手を繋いだ状態で泣きじゃくる風雅を見下ろしていた。
ふと、男は繋いでいた手を離し、風雅と目線を合わせるため屈伸し、徐に口を開いた。
「××××××××××××」
放送停止時刻のテレビから流れる、砂嵐のようなノイズにかき消された男の言葉に、風雅は目を見開き、男の名を呼ぼうと口を開く。だが、風雅の口は確かな言葉を発することができなかった。それもそのはずである。男は成長途上の、だが男らしさの感じられる、そのごつごつとした両手を風雅の首にかけたのだ。
男は持っていた傘の事など忘れ、全身が濡れるのも気に留めず。段々と首を絞める力を強くしていく。そしてその度に風雅の顔から血の気が引いていく。
風雅は酷く傷ついたような、それでいて何処か諦めも感じられる表情で、縋るように男へと腕を伸ばす。
「…化け物め」
雨音と砂嵐のノイズにまみれた夢の中で、男のその言葉だけが、今の風雅に届いた唯一の言葉だった。
翌日、冷や汗まみれの風雅が目を覚ますと、寝室で寝かせたはずの六兵衛が風雅の腕に包まって顔を覗いていた。
「おはよう、風雅」
「…いつから布団に?」
「お日様がまだ上ってなかったくらいから。目が覚めたら風雅が居なくて不安だった」
「そういうことを言う相手を間違っている気がするけど…それと、学さんも何でいらっしゃるんですか」
風雅が後ろを振り返ると間近に学の顔があり、後ろから風雅を包むように、学の大きな腕が覆い被さっていた。
「よう、おはようさん。なんだ?結構長い時間寝てたのにそんな震えて、夢見でも悪かったか?じゃあ風雅の怖い怖いが無くなるまで皆で二度寝だ二度寝。傍にいてやるから安心して寝ろ。な?」
「僕も一緒にいるから。そしたら風雅は安心?」
六兵衛は風雅の手を取り、学は風雅に覆い被さり緩く抱きしめた。二人の体温が風雅の全身を覆って、また彼を眠りにいざなおうとする。そしてその温かさに包まれている内に、あの得体の知れない、いつの頃の記憶なのか、はたまた何も関係のない悪夢だったのか。風雅の体を襲っていた、例え難い恐怖も震えも、頬を伝っていった雫と共に、いつの間にか影も形もなく消え去って行った。
「学さん、六兵衛…迷惑をかけてすみません」
「ばーか、そういう時はな風雅。ありがとうでいいんだよ」
「…ありがとう、ございます」
夏の強い日差しなど関係無いとでも言うかのように、三人川の字になって眠りに就く。眠気によって外から劈くセミの鳴く声が、風雅の耳からどんどん遠のいていく。
だが、そんな穏やかな時間の流れも、三人が二度寝をしている様を見つけた静江が混ざろうと、勢いよく三人の真上に飛び込んだことで終止符を打ったのだった。
「そういえば、結局あの旅人さん何だったのかしらねえ」
皆で食卓を囲み、おしんこを食べながら静江はそう切り出した。
「風雅や六兵衛君にお話を聞かせてくれていた様子はあったけど、気が付いたら居なくなってるなんて。お化けか何かだったのかしら?」
「おいおい、そんな非現実的な話があるか。それより風雅、お前あの男に何かされてないか?最近何かと物騒だし、風雅は顔がいいから心配で心配で」
「はは、平気ですよ。特に何かされたとか、そういったことは無かったですから」
風雅は小五郎とあの晩話した内容を学達に切り出す気は一切なかった。自分の事を大事に思ってくれている人達を少しでも心配させることを、彼は嫌ったからである。約束の日が来ても、誰にも告げず一人逃げ出して、どこか遠くへ雲隠れする決断を既に下していた。
そしてその決断を決行する日は、一日ずつ着実に迫っていくのだった。
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