序章 第三幕―幸せ―
あの行き倒れが現れた日から、遂に三年目の春がやってきた。それまで風雅の周りでは、いろいろなことがあった。
例えば、静江の母親心がから回って彼女が編み物や料理に挑戦するたびに失敗したり。たまにやってくる学が風雅の将来のためにとあらゆる薬草の知識を与えたり、六兵衛も交えて剣技や弓等の技術を風雅に教えたり。そしてたまに六兵衛と隣町まで出かけて買い物をしたり、小川の傍で水遊びをしたりと、子どもとしても穏やかな日常を送った。
そして、この世界で生きていくうちに風雅にとって今生での楽しみができた。それは料理を作って誰かに食べて貰う事だった。同じ食卓を囲って自分が作った料理を食べて貰えると、何だか懐かしいようなむず痒い気持ちと一緒に、この世界に自分の存在を認めて貰えているように思えて、胸が救われる気持ちになったのだ。
だがこの世界での生活が充実していく反面、平成の常識や雑学などは思い出せども、自分自身の事についての記憶は戻ることは無かった。未だ風雅の心の中では化け物としての意識が彼を蝕み、どれだけ普通の人間として充実と言っていいほどの生活を送っても、いつか必ず化け物の自分が誰かの幸せを壊してしまう。そんな妄想が消えない状態が続き、以前以上に他の人間との交流を遠ざけていく一方になっていた。
そして、この日もいつも通り風雅は台所で料理を作っていた。そば粉を練りながら夕飯のオム蕎麦の準備を着々と進める。
毎日料理をし続けていた風雅の腕は見るからに上達し、もはやそこいらの主婦と比べても忖度ないほどになっていた。大事な人たちと食卓を囲む光景を頭に思い浮かべて、時折幸せそうにはにかむ姿に、彼にとって今の時間がとても幸せなのだということが感じ取れる。
(今日は学さんが来る日だから多めに卵を使って、六兵衛の好きなマヨネーズを多めに入れて、静江さんには最近体系を気にしだしていたから別個に蒟蒻麺を用意してあげよう)
そんな考えを巡らせながら風雅が調理を終えた直後のことだった。
「「お迎えに上がりました」」
そんな言葉が後ろから聞こえて風雅は振り返る。
そこには風雅とあまり歳が変わらなく見える男女が、毅然とした態度で立っていた。二人は風雅の視線に気が付くと一度会釈をし、家の中へと歩を進めた。
「突然の訪問失礼する。君が父から伺っていた風雅だな。三年前父が君と交わした約束を果たしに来た」
「入学にあたって貴方の母親と金銭面等の話をつけた後、我々は貴方を学院へ案内するように学院長に命じられています。母君様はどちらへ?」
風雅はその二人の言葉を理解すると青ざめた顔で一歩後退った。
(遂にこの日が来てしまった…)
冷や汗を垂らしたのと同時に、風雅は二人に向かって一度困ったように微笑む。
「困ったなあ…今日のオム蕎麦、食べて貰える所見れそうにないや」
そう呟くといつも外を眺めていた窓にめがけて真横に駆け出し、長い年月をかけて脆くなった十字の窓枠に全体重を乗せて蹴り込み破壊した。
そしてそのままの勢いで地面に着地すると、彼は脱兎の如くその場から逃げ出した。
「な!?何故逃げる!」
「俺は学院には行きません!そう小五郎さんにお伝えください!」
「勝手な…。獅子王丸。私があれを追いかける。貴方は彼の母親に話をつけておいて。きっとあの様子じゃこの件について何も話し合っていないはずよ」
「…一華。追いかけるのは構わないが棒手裏剣は仕舞え。彼を殺す気か」
「話も聞かずに逃げ出すだなんて。殺しまではしないけれど腕一本くらいなら暫く使えなくしても問題ないでしょう?
あれが学院に来るも来ないもどうでもいいし自由だけれど、今回の私達の課題は『入学推薦者の勧誘、及び入試会場への案内。それが叶わない場合は入学辞退者の辞退理由をまとめ、書面で提出』無理やりにでも捕まえて理由だけでも吐き出させないと、私の成績に響くじゃないの。じゃあ、後の事は任せたから」
一華と呼ばれた鋭い目付きの少女は、棒状で先端の尖った物体を片手に持つ。そして藤色の髪を大きく揺らし、窓から勢いよく外に飛び出した。
それを見送る獅子王丸と呼ばれた少年は腰に手を置いた後、数度頬の傷を掻くと、再度家の奥へと歩みを進める。
家の奥から先ほどの出来事で起きた大きな物音を聞いて、走ってくる静江の姿が伺える。その慌ただしい足音が二人の距離を縮めていた。
瑠璃色の長い髪を揺らしながら一人の少年が森林の中を駆ける。その背を追う少女は棒手裏剣を時折投擲しながら少年との距離を詰めていく。
その物体は風雅の頬や服の一部を何度か掠り、少年の身体には細かな傷が着々と刻まれていく。
「っ…!やっとのことで機会が巡ってきたんです!俺の事なんか放っておいてください!そしたらもう誰にも迷惑をかけなくて済むんです!俺が居たら誰も幸せになんてならないんです!」
「思考を拗らせるのは結構だけど、はっきり言って今の貴方の行動の方が一等迷惑よ。私にも、貴方の家族にもね。それに貴方、そんな身一つでどこに逃げるつもり!」
風雅は一華の言葉に唇をつぐむ。
本当ならば彼はとっくのとうに死んでいたはずだった。周りの人達を不幸にさせる前に戦場にでも出て殺されてしまおうと考えていた。
だがその度に六兵衛や学に見つかり、行動を阻止され続けた結果、彼は自ら死に行くことができなかった。
そしてあっという間に年月が流れ、ついにはそのまま三年という時間が経ってしまっただけなのだ。
彼らが風雅の元に訪れた先刻こそが、唯一普段の彼を止める人達が居ない時間帯だった。普段の彼なら、時間があるうちにもう一品仕上げてしまおうかと思考を巡らせているはずだった。だが、もう気が付いた事実から目をそむくことはできない。
風雅は首を横に振りながら彼女の言葉を脳から遮断し、全速力で逃げ続ける。
「往生際の悪い…、次は本気で当てに行くわ。その右腕使い物にならなくなる前に止まりなさい!…っ!」
真横から突然の攻撃を受けて一華は後ろに飛び跳ね、顔面すれすれを通った誰かの足を回避した。
「貴方…何者?突然の横やりなんて感心しないわね」
「君なんかに名乗る名前はないよ。こんなに風雅を傷つけて…絶対に許さない」
風雅が後ろを振り返ると、そこにはツギハギまみれの亀甲模様の羽織を着た六兵衛が、鍬を持って一華と対面していた姿があった。二人はお互いを睨み合い、六兵衛が鍬を振り上げたことを皮切りに激しい攻防を繰り広げる。
風雅が六兵衛の名前を叫ぼうと声を張り上げ、近づこうと駆け出したその瞬間、風雅の腕を誰かが引いた。
「やっと会えた」
自身の腕をつかんだ人物の姿を風雅は色濃くハッキリと覚えていた。本来であればこの世界には存在しない、むしろ絶対に存在してはいけない人物。
山吹色の長い髪、鶯色の瞳。何枚もの大きな翼。風雅をこの世界に落とした自称神様の姿がそこにはあった。
風雅は以前されたことを反射的に思い返し、ゾッと身の毛がよだった。
思わず握られた手を振りほどき、不安げな瞳を揺らしながら風雅はそれを見上げる。
「…いったい何の用ですか?貴方の望み通り、俺はまた生まれてしまいましたよ?…ああ、今度は俺を殺しにでも来ましたか?」
「…僕が君を殺す?ああ、そうか。突然現れたせいで混乱させてしまっているようだね。ごめんね、全部終わらせてから改めて会いに来たかったのだけど…。ごめん、言い訳なんて要らないよね。
時間がないんだ。僕がこうして君の前にいられる時間は数分程度しかない」
振り払われた方の手を強く握って、今にも泣いてしまいそうな表情で風雅を見る神様の姿に、風雅はたじろぐ。本当にあれほど残虐で苛烈な行為を行った人物であるのか疑わしいほど、風雅にとって目の前の人物は弱々しく見えた。
「端的に言おう。君を陥れたい人物がいつか目の前に現れる。
心が打ち砕かれるほど酷なことをされるかもしれない。君は僕によく似てるから、自分よりも親しい人を攻撃された方が胸が痛むことを、僕はよく知っている。
ただ、君の心が砕ける瞬間を大人しく指をくわえて見届ける覚悟なんか出来ていない。必ず君の力になる人物を既に四人用意してある。
君が自分をいくらでも犠牲にできて、何よりも他人の幸福を望んでいることも知っているから、もしかしたら余計なお世話だと思うかもしれない。
だけど…、だけど」
この世の物と思えないほど端麗な顔をした人物の頬を伝って、その眼から途絶えることなく次々と雫が垂れる。
神様は震える手で風雅の手を握り、祈るように頭を垂れた。
「君も幸せになっていいんだよ」
「俺…が…」
その言葉を引き金に風雅の頭をノイズが襲う。
まるで壊れたカセットテープのように繰り返し、早送りで頭の中を映像が流れていく。
満面の笑みでナイフを突き出している高校生くらいの血濡れの男。畏怖の表情を浮かべながら物を投げつけてくる、くたびれた見た目の女性。雨の降る中、自身の首を絞める眼鏡をかけた男。
代わる代わる現れては『化け物』と風雅を呼ぶ。
頭をハンマーで叩きつけられたような衝撃に、風雅の呼吸が段々と乱れていく。
「落ち着いて!大丈夫、大丈夫だ。君はまだ全てを思い出していないだけだ。幸せな思い出もこれから段々と思い出していけばいい!
他人と同じように、同じだけ君は幸せになっていいんだよ!それに何の罪も罰もない!君は化け物なんかじゃない、君は…!」
一陣の風が神様の身体を細かな砂のように攫っていく。
「ああ…そんな。もう実体が保てない。ごめんね。どうか、君が幸せになれますように」
神様の姿が見えなくなり、そのまま風雅は膝をついてへたりこんだ。
混濁とした罪の意識が自己嫌悪と懺悔、吐き気を催す。刹那の時間に不可解な事がありすぎた。
そんな項垂れる風雅の肩を誰かが掴んだ。
「やっと捕まえたわ、この大うつけ者」
「ちょっと風雅をそんな乱暴に掴まないでよ。力強いんだよ男女」
「女顔な貴方に言われたくないわね。はあ、全く厄介な課題。
さっさと立ちなさい。傷をさらに増やしたくないならね」
鍬を抱えたままの六兵衛を片腕で持ちながら、風雅の襟を持ち上げ、地に足を付けさせた。
全身ぼろぼろになっている六兵衛とは真逆に、一華の体には傷一つないことから、二人の戦いは彼女の圧勝であったことが伺える。
「…六兵衛」
「なに?男女が力入れるから痛かった?もっと強くなって男女に勝てるようになったら十倍返しするから、それまで待ってて欲しいの。
それとも今回のこと僕に黙ってたの謝ってくれるの?勝手に死ぬとか許さないよ。同じ卒塔婆の下で寝たいのにどこぞの馬の骨に殺されようとするとか、髪のひと房しか残りませんでした、とかそういうの絶対要らないの。風雅は僕の隣で今生を満足して寿命で死ぬの!」
「ほら、貴方が事前に話しておかないから急に流暢に喋りだした。これ相当怒ってるんじゃないの」
風雅を追いかけてきていた時にあった殺意が微塵もなく消えて、呆れた顔をした一華を風雅は見上げる。
(他人と同じように、同じだけ幸せになれる…。
俺の撒き散らす不幸は多いからプラスにするのは難しいかもしれないけど、たくさんの人を幸せにしたら、ほんの少しだけ俺も幸せになってもいいのだろうか。
龍宮学院に行けば、俺はたくさんの人に出会えるのだろう。
もし、その人達全て幸せにできたら、俺は俺自身を思い出せるだろうか。そしたら忌み嫌われる化け物でも幸せになれるのかな)
「…俺、幸せになってもいいのかなあ…」
「当たり前でしょ。僕は!風雅と!一緒に幸せになりたいの!おばか!考えなし!引っ込み思案!色男!もっと我儘言って!」
「ええい私の脇の下で鍬を振り回さない!もう一発殴ってもいいのよ!」
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